ジョジョが昔から好きだった。

 
初めてジョジョを買ったのは、小学1年生の時。
 
ジャンプで花京院典明が時計台を攻撃してた頃、ぼくはジョジョの世界観に魅せられて、
父親からお小遣いをもらい、ジョジョの奇妙な冒険第1巻を買った。
 
それから月に2、3冊ずつ、単行本を集めていくのが自分の楽しみでもあった。
 
父親が奮発して5冊買ってくれた時は、最高にうれピかった。
単行本独特の匂いを知ったのもジョジョだった。
 
当時は、ジョジョが好きな人が周りにおらず、小学校時代はおろか青春時代全般、
ジョジョのことを理解してくれる人はあまりいなかった。
絵が気持ち悪いと言われただけだ。
 
だが、どうだ!今年は実写映画もやるし、アニメも好調。空前のジョジョブームじゃねーか。
一方自分は36歳に最近なり、今更ジョジョに浮かれていられる歳でもなくなった。
 
何を今更ジョジョジョジョ言ってんだよ!
こっちは30年前から波紋カッター飛ばしてたわ!と言いたいところ。
俺は昔からファンだったんだょぉぉおー!!!
って言いたくなるくらい、ギャップを感じる。でもこれがブームってやつなのかなー。なんだかなー。
 
とまあ、積年の憂さ晴らしをしたところで、本題に入ろうと思う。
 
最近、久しぶりにジョジョを読んだ。
読んだのは第5部。
読み始めたら止まらなくて、結局5部全部読むことになった。
読んでいたら、とても懐かしい気持ちになり、中学時代に日記を書いていたことを思い出した。
当時ぼくは、哲学や自己啓発本にハマっていて、
父親が会社の研修で使った名著「7つの習慣」読んで、自分について思い悩むちょっとおませな中学生だった。
 
生きるとはなにか?
幸せとはなにか?
 
そんなことに思いを巡らせて、思いのままに日記を毎日書いていた。
 
そんな青春時代に、ジョジョの第5部が始まっていた。
 
そして、ミスタの生き方に人生の答えを見つけたのだった。
今思うと、ミスタの生き方を確認したくて読み返したのかもしれない。
 
ぼくとグイード・ミスタとの出会いは、あまりピンと来るものではなかった。
強いスタンド使いが好きだったぼくにとってセックスピストルズは、
弾丸をただ制御するだけだし、スタンド使いとしては、か弱くみえた。
 
でも、読んで行くうちに、人間味のあるピストルズが可愛いく思えたし、
何よりミスタのさっぱりした性格が好きになった。
 
そして、54巻の最後にある、ミスタの若い頃の回想シーンをみた時、自分の人生観を教えてもらった。
 
それはシンプルに生きるということ。
 
眠ることを楽しみ、
朝日の中の木の枝や、
雲のうごくようすを
見ることを楽しむ。
ワインの香りを楽しみ
チーズをかじることを楽しむ。
単純さは愚直と受け取られることもあるのだが、あれこれ複雑に考えることは、
「恐怖」を心の中にまねくことなので、良くないとミスタは考えていた。
 
こんな人生観だ。
 
中学時代の自分はこれを見て、日記を書くのをその日からやめた。
自分もシンプルに生きようと決めたのだった。
 
そして今、改めて読み返してみて気づくのは、荒木先生の運命についての深い洞察。
 
人間にはそれぞれ定まった運命があるものだ。
ということをミスタは学ぶ。
 
色々と遠回りするけれど、結局は自分の向かうべき道を歩んでいくものだ。
 
これは、ミスタがシンプルに生きてきたから気づくことじゃないかと思う。
自分に素直に生きてきたから、運命に気づくのではないか。
 
この第5部を最後まで読むと、ボスを倒した後にエピローグがある。
 
眠れる奴隷の回だ。
 
これは死が確定した人の前に現れる石の話だ。
石はブチャラティの死を予見し、安楽死できるようにブチャラティと接触をはかる。
それをミスタが阻止しようとする話だ。
 
ミスタは決められた運命に抗い、石を破壊する。
 
結果、ブチャラティ以外の仲間も死ぬ運命に変わる。
 
一人だったのが、三人死ぬことに変わるのだ。
 
その石(スタンド名ローリングストーンズ)の本体である彫刻家はこう言う。
 
我々は運命の奴隷である。
でも彼らの苦難が、何か意味のあることを切り開いていくのではないか
 
 
シンプルに生きて、ゆえに運命を見つけて、時にそれに抗い、
自分の手で切り開いていく。
切り開くことで苦難を背負うとしても、それが何かの希望をつくるのではないか?
 
そんな人生観をこの歳になってまた、ミスタから教わった第5部となった。